京都・直七法衣店さんで座談会「これからの寺や住職との付き合い方」

いつも多彩なテーマでイベントを開催している京都・直七法衣店さんに行ってきました!
昨日行われた直七座談会のタイトルは「未来の住職塾塾長 松本紹圭氏と語り合う これからの寺や住職との付き合い方」。

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非常に興味のある内容でしたし、数年前から講師の松本さんに一度お話を聞いてみたいと思っていました。
そこで、わがままを言って急遽、京都行きを決めました!

今回のイベントは松本さんが話題提供した後、質問タイム。
その後、僧侶の方と一般の方でグループディスカッションし、チームごとに発表する時間もありました。
最後は松本さんの総括で終了。
イベント後、松本さんに直接確認したかったこともうかがえて満足です!

松本さんは大分政経懇話会でも講演されています。
テンプルモーニングは大分合同新聞でも紹介されています。

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【写真が横で申し訳ありません。修正を試みてます → できました!】

主催者でもあり会場でもある直七法衣店さん。
https://naoshichi-kyoto.jp
多彩なゲストを招いたトークイベントなどで、宗教者と一般の方をつなぐ橋渡し役となられています。
私たちも見習っていきたいです。

ただ個人的な反省も。。。
きのう持参したお土産が南蛮菓「ざびえる」。
檀家制度とキリシタンの関連についてのお話もあり、参加された方も笑っていました。。。

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そして今朝は6時から西本願寺の晨朝勤行へ。

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中座して、7時には西山別院へ。

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以下、折角なのでメモを書き記します。

松本紹圭氏 浄土真宗本願寺派僧侶
東京・光明寺に所属
寺生まれではなかった。北海道出身。大学進学で上京。
「坊さんの道楽でしょ」と思われがちだが、開業届を出し法人登記した。
フリーランス僧侶で主な仕事は講演・執筆
あえて、そういう立場がいいかな
2、3回は寺の就職の誘いもあったが、住職にならずにきた
宗派を超えた学びの場、お坊さんのための駆け込み寺を作った
住職は寺の社長、住職はやることがたくさんあるので
自分自身がお寺の住職じゃないからこそ、みんなが集まって学び合う機会がつくれた
未来の住職塾はネクスト:バージョンアップしている
通算8年目で600名が修了
塾で一年間学んだ後も、継続して研修できる仕組み
最近は海外での取り組みが増えている
仏教だけではなく、世界の宗教にとって重要と認識されている
お寺・宗教法人・宗教組織をよくしていこう
次世代につなげていくことは大事だね、ということ。
ヤンググローバルリーダー
いろんな分野の専門家が集まり、リーダーシップを発揮する場に招かれている

未来の住職塾
共通のテーマで集うと仲間になれる
マネジメント
仏教で集うと仲間になれない
共通テーマを設定すると垣根が取れる。深い会話ができる
「友達になる」
何にもなく集まると「ウチが正しい」「ウチが最高」という域から出ずに単なる名刺交換で終わる
同じ釜の飯を食う感覚で仲良くなる
他宗の教義を学びあったりできる
宗教者の悩み:後継
宗教組織側:どこの宗教も信者さんが減っているのが悩み、本部の硬直化
街に出て交流してみると宗教を求めているというか、心病んでいる人も多い
この時代に生まれた私をどう捉えたらいいか、私の人生をどう捉えて、どう心を整えていけば良いのか考えたり、悩んでいる人は多い

アメリカ
心を耕したいが、宗教熱心ではない
spiritual but not religious
宗教団体に所属したくない人が増えている
宗教団体・宗教者側は心をよくしたいという担い手になりたいが、なれていない
宗教性・宗教的感性を求める傾向にあるが、その参照先に既存の宗教がなれていない
既存の宗教、伝統宗教が機能していない
仏教もキリスト教の教会も直面している
Religion レリジョン:世界の宗教は終わりつつある
何か違う形でこれからの人と繋がっていかなければいけない
もし繋がれなければ不幸
どうやってトランジション、いい形で次の時代に着地させる
自分は宗教の内部にいるから内部から変える
もちろん外から変えることも大事

これからの付き合い方
たくさんの普通のお寺の住職と接してきた

ポストレリジョン Post-religionがキーワード
築地本願寺:築地本願寺倶楽部
檀家とは、信仰とは
そもそも檀家制度も信仰が起点ではない
キリシタンの嫌疑がかけられるため、キリシタンじゃないことを証明する必要があった
現在の檀家制度はお坊さん自身も混乱している
いろんなところの檀家になるのは違う:家の宗教→レリジョン的

宗派は故郷
生まれた家は北海道、今は東京に住んでいる。住む場所は「必ず北海道でなければいけない」わけではない
故郷的に大事にすればいい
居心地が良ければそのまま住み続ければいいだけのこと。宗派を変えることもそこまでの重大さ、重さで考える必要はないのでは

檀家で1対1の対応でやっていかないといけないと考えるのもレリジョン的
宗教の掛け持ちを縛ると一神教的なレリジョン
レリジョンを宗教と訳したのは福沢諭吉
それ以前は神社にもいくし、寺にもいく。今でもそう
「絶対に私はここなんだ」ということがあったわけではない
かつての坊さんは八宗兼学
いろんな宗派を横断的に学んでいた
今は硬直化、レリジョン化しているために
「めんどくさい、縛られたくない」と嫌われている
例えば「あそこのお寺いいな」と思っても「オタクは〇〇の檀家ですよね」と断られる
そのことが「ややこしい、そういうものなのか、息苦しい世界、だったらもういいわ、自分で本でも読んで勉強するわ」の流れになっている
築地本願寺倶楽部は築地本願寺は本山直轄寺院にも関わらず、
檀家制度とは違った形での、ゆるやかな会員制度を作ろうとしている
その中心には永代供養墓・合同墓
年会費無料、入会金無料の単なる情報サービス
いろんな案内が来たり、カルチャーセンターに通えるサービス
他宗の信者の入会も可能で敷居を下げる、誰でも入れるようにしている
浄土真宗本願寺派の教義を信仰する人ではなく、尊重する人ならOK
これは普通に考えたら真っ当なこと

ポストレリジョン的
「やめてきてください」ではない、掛け持ちOKの世界観
自分の興味関心によって、その時々で出入りする
あっちを捨てて、こっちを選ぶのではない

宗教とは何か?
いろんな答え方があるが、一つ視点を変える見方として信仰という言葉がある
みんな「信仰、信仰」というが、ほとんどが習慣なのではないのか
習慣あってこその信仰、習慣なくして信仰なし
信仰を議論するのは不毛
東京ジャーミイというモスクがあってムスリムによると「信仰は味わい」のようなものという
「甘いですよ」「甘いんですね」ということはわかっても、本当の味は分からない
レシピだけ見ても味がわからないのと一緒で、信仰の深さを議論するのは、どこまでいっても不毛は不毛
信仰の中身を論じるのは難しいが、日々の生活の中で何を持っているのか
毎朝起きて仏壇に向かうことこそ信仰、宗教
習慣の共有、宗教文化としてコミュニティーで共有されているもの

築地本願寺倶楽部は築地本願寺のコミュニティーということで、その中心には阿弥陀様がいらっしゃる
その人の目には全く入っていないのだがという発想もできる

お坊さんは即物的で、すぐに結果を求める人もいる
今日の私と明日の私は気持ちも揺れ動いて、浄土真宗的にいうと「全くあてにならない私」である
その人が築地本願寺にくる動機は阿弥陀様に一直線の人もいる
もちろん、カフェの朝食メインの人もいる
カフェ目的の人は、今は世に言う信仰心は限りなくゼロだが、「人生100年時代」を迎え、人生にはいろんな局面がある
いろんな苦しみ、愛別離苦であったり心境は変化する
今までそう言う関係ではなかったが、それがきっかけに宗教と結びつくこともある

また、お寺とは良き習慣の道場である
わたし自身が坊さんとして活動する中で、そう捉えたらいいのか?
「私が生きているこの世界にお寺でない場所はない。全ての場所が寺で、出会う人すべてが檀家」

そう考えると外も内もない
浄土真宗的には「阿弥陀様は生きとし生けるものに常にはたらいてくださっている。働いていない場所はない」
「ここまでが信仰のコミュニティーで、ここからは俗なものである」と言うことはどこまでいっても言えない


テンプルモーニング:聖地
寺院はずっと昔から多くの人が祈りを捧げてきた、みんなの聖地
この場所が私の聖地という感覚が芽生えてくる
掃除地獄:私が掃除をするところはすべて聖地だということ
世界そのものを聖なるものと捉えていく
「私が生きているこの世界、そして人の縁、全てがいただきもののご縁であると受け取っていくことは信仰というより宗教的な生き方」
いきなりその域には到達できない。
なので、象徴的な場所としてのお寺、そこに紐づくコミュニティーがゲートになっていくイメージ

新しい宗教を作ることほどつまらないことはない
それをずっと繰り返してきたから
アナザーレリジョンではなく、今までのレリジョンでは捉えられなかったところに、みんなの気持ちが向きつつある
そこは宗教性がなくなったわけでも、新しい宗教というわけでもない
新しい形での宗教性の表現、味わい方、コミュニティーの作られ方に目を向ける必要がある

住職塾
いろんな宗派はあれども
お寺自体が次の世代につなげていく使命
お寺が要か不要かの議論もある
しかし、それは私という限られた目線で思っていることに過ぎない
他の人から見たら違うかもしれないし、次の世代の人にとって必要かもしれない
なので、できる限りの努力はしていきたい

敷居が高い、低い云々よりも用がなかったらお寺にはいかない
カフェ、マルシェでもOK
「用がないのがお寺の用」とも言えるが、それをお坊さんがお寺の中で言っていても始まらない
布教とは「つたえること」だけでなく「つながること」
つながること自体が大切
なんであれ、つながっていくことにはシンプルであるべき
掃除は宗派関係なくできる
どんな人の生活の中にも関係のあること
私はテンプルモーニングは掃除の会と言いながら
最初の15分で正信偈をお勤め、掃除して、お茶しながらお話しして1時間の構成
「どんなお寺でもできることって何かな」と考えた時に掃除・お経
どんな住職であっても、やる気さえあれば出来る
通夜や葬儀、法要など寺のスケジュールは予定が立てにくいが、朝だけはフリータイム
お寺の朝は清々しい
イベントたくさんやればいい訳ではない
なるべくやらないで済むならやらない方がいいと思っている
やりたくなる時期もあるだろうから、ひとしきり行えばいいが結構疲れる
お寺は年中、葬儀や行事の準備に追われているのに新しいことをやるのは大変
やってから気づく。普段やってきたことに価値があると気づく

朝のお勤めをSNSで呼びかけてみたのがテンプルモーニング
報恩講いろんなやり方がある
触れてなかった人にも大きな価値がある
知らなかったので価値を享受できていなかった
つながりさえすれば、味わっていただけることはある
燃え尽きず、続けることが大事
あれこれやって、シッチャカメッチャカに
テンプルモーニングも一人も来ないことがある
誰も来なくても「自分が参加しているじゃないか」という気持ちでやっていく
大事なことをキチッと続けていく

未来の住職塾は「マネジメント」「リーダーシップ」とかカタカナを使う
それが琴線に響く人もいれば、「何でお寺でそんなことを」という人もいる
違う世界の言葉を持ち込んでくる、異質な概念に触れることはお坊さんにとって必要なこと
あまりにも固定化されたムラ社会に居すぎるとムラの言葉だけで何か伝わったような気になる
「水も流れないと腐ってくるのと一緒」自家中毒状態になっていく
どうやって違う流れを入れながら、それに触れつつ、今まで使ってきた言葉や大事にしてきた習慣をリフレッシュしていく
それは形を変えるということではなく、捉え方の違い
いかに新鮮な気持ちで取り組むかがポイント

マネジメント、リーダーシップなど知識やテクニックで何とかなることは本質的なことではないし、大したことではない
でも、大したことないことで、知識やテクニックで何とかなるのなら、さっさと行動すればいい
その上で、信仰や宗教、宗教者として本当に大切なことに力を入れて、気長に腰を据えてやっていく

浄土真宗は御同行・御同朋という言葉があり、お坊さんだけでなく念仏をいただく人は仲間のコミュニティー
それをやっていこうと考えている

ファインのお葬式

株式会社ファイン

●判田台会館コールセンター
 0120-45-1357

家族葬の判田台会館
 大分県大分市判田台北4丁目1-3
097-597-4813

●備庵コールセンター
 0120-01-8768

家族葬の備庵【牧・下郡】
 大分県大分市下郡1686-2
 097-547-7995

家族葬の備庵【山津】
 大分県大分市山津町2丁目5-6
 097-578-9494

家族葬の備庵【別府・船小路町】
 大分県別府市船小路町4-6
 0977-76-5618

家族葬の備庵【別府・堀田】
 大分県別府市堀田7-1
 0977-75-8768

家族葬の備庵【豊後大野・みえ】
 大分県豊後大野市三重町菅生1652−1
 0120-06-1357


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